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2020年01月17日

惨憺たる県都・新潟市の実情

2017年05月27日

27年前の平成2年(1990)11月に行われた新潟市長選は激戦だった。市の助役だった長谷川義明と、県議だった吉田六左エ門の一騎打ち。勝ったのは長谷川だったが、このたび吉田を断固支持した業界団体による檄文と意見広告が〝発掘〟された。〈15年、県都の停滞を憂う〉とした当時の状況は、今に酷似している。ということは、四半世紀以上も新潟は進歩していないのか…?(敬称略)

 

15年の停滞を憂う

 

27 年前の平成2年(1990)、未だバブル経済のただ中だった。新潟市の古町にはディスコ「マハラジャ」があったし、林立するリゾートマンション群と地価の狂乱をリポートした『東京都湯沢町』(新潟日報報道部著)が出版されたのもこの年だ。

 

首相は海部俊樹だった。スーパーファミコンが発売され、アニメの「ちびまる子ちゃん」が放映を開始。「オヤジギャル」や「アッシーくん」といった、いかにもバブル時代らしい言葉が流行語になっていた。一方で昭和の風情もまだ残っていた。今は連節バスが往来する新潟市の「はくさん通り」は「電車通り」と呼ばれ、実際に「電鉄」の愛称で親しまれた新潟交通の電車が走っていた。

 

この年、若杉元喜新潟市長が2期目の途中で辞任した。同市長は昭和58年(1983)、社会(当時)・共産が推薦、公明が支持し、自民の推薦候補を破って初当選した。その前任者が川上喜八郎市長。「人間都市」を目指すとした同市長は、社会、共産、公明からの共同推薦を得て、昭和50年(1975) に初当選していた。

 

この年、若杉元喜新潟市長が2期目の途中で辞任した。同市長は昭和58年(1983)、社会(当時)・共産が推薦、公明が支持し、自民の推薦候補を破って初当選した。その前任者が川上喜八郎市長。「人間都市」を目指すとした同市長は、社会、共産、公明からの共同推薦を得て、昭和50年(1975) に初当選していた。

 

川上─若杉の革新市政は、後者が辞任した平成2年(1990)まで15 年間続いていた。同年の市長選は元建設官僚で前助役の長谷川義明と、前県議の吉田六左エ門との一騎打ちだった。後者は3年前の市長選に出馬した吉田孝志市議の義父で、後の衆院議員だ。

 

川上、若杉の支持母体だった『人間都市にいがたをつくる市民連合』が長谷川に出馬を要請。選挙は「社会、共産などが支持する長谷川と、自民が担ぐ吉田」という構図で争われた。「革新市政の継続か、15年ぶりの保守奪還か」が争点とされ、見かけは確かに保革の争いだった。だが内部は保革入り乱れ、捻じれに捻じれていた。これがその後も続く新潟市政の特徴でもあった。

 

結局のところ選挙は長谷川の勝利で終わった。得票は長谷川が11万4千609、吉田が10万66。当初は長谷川の楽勝と思われたが、蓋を開けてみれば吉田が大善戦。ここでコテンパンにやられていたら、吉田は後に衆院選に回ることなどおぼつかなかったかもしれない。

 

この市長選で建設業界の大方は、自民ではなく革新側の長谷川に味方した。そのあたりが当時の新潟らしい摩訶不思議なところ。一方、建設業界とは対照的に、「断固吉田支持」で突っ走ったのが不動産業界だった。このたび27 年前の市長選に際し、不動産の業界団体などによって作成された「意見広告」と「檄文」が見つかった。

 

p24

意見広告は選挙の公報ほどのサイズ。ドデカい文字で〈これでいいのか新潟市 15年、県都の停滞を憂う〉とある。「今、吉田六左エ門氏を推挙するについて」とした檄文は、あたかも巻紙のような体裁だ。

 

檄文は不動産業者らで組織する政治団体によるもの。意見広告にはこの政治団体と共に、県宅建協会や全宅連新潟本部という業界団体そのものも名を連ねている。不動産業界挙げての意気込みが伝わってくる。

 

同じく停滞15年

 

〈これでいいのか新潟市15年、県都の停滞を憂う〉は、あくまで27年前のキャッチコピーだ。だがついつい今とダブってしまう。奇しくも篠田昭市長が初当選した平成14年(2002)から、今年は15年目だ。最近のBRT(バス高速輸送システム)や中心市街地の状況を見るにつけ、つい〈県都の停滞を憂う〉と思いたくなる。…続きは本誌に

 

 

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