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2024年05月4日

理化学研究所と田中元総理の浅からぬ関係

2015年12月28日

恩師大河内正敏を介して受け取った80数億円(現在の価値)の資金を基に、国盗りの野望を成し遂げた角栄。並外れた2人の師弟関係に迫る。

 

理研が進めた「日本原爆計画」

 

昭和41年5月、日本経済新聞社から『田中角栄 私の履歴書』が発刊された。言うまでもなく著者は田中角栄元総理である。

 

そのころ角栄は「黒い霧」といわれた一連の政界不祥事の責任を取る形で自民党幹事長を辞任し無役の身にあった。全172頁のうち115頁は、理化学研究所(以下、理研)と師大河内正敏の記述で占められている。

 

定価260円で発売された同書は瞬く間にベストセラーになり、文芸評論家の小林秀雄は「政治家らしくない名文だ。内容も率直で飾り気がなく、実によく書けている」と新聞紙上で絶賛した。

 

側近からその話を聞いた角栄は、にっこり笑って、「その小林くんというのは、どこの小林くん?」と訊き返したという。

 

p82

「私は本郷上富士前町の理化学研究所へよく出向いた。いくつかの研究室の人たちは実によく働いていた。来る日も来る日も朝から晩まで、研究と実験に没頭している研究員の生活や、この研究所全体のふんいきの中で数多くの人を知り、そのうえ種々のことを学んだ。どんなことにでも入念な基礎研究と周到な用意のもとに行なわれる実験が重なってこそ、はじめて成功というものが存在するのである。(中略)終戦後、占領軍が日本に進駐のため、厚木の飛行場にその第一歩を印した直後、その1分隊がまっすぐにこの研究所へきた。そして仁科芳雄研究室のサイクロトロンの破壊をやってのけたのである。この恩賜財団理化学研究所に対して連合国側がいかに恐れ、そしてその存在を高く評価していたかが、この一事でも容易に推測される。戦後一時、民間経営となり名称も科研化学株式会社となり、泣いても泣けないものになった(後略)」 (『私の履歴書』より)

 

上記文中に、「(占領軍が)厚木の飛行場にその第1歩を印した直後、その1分隊がまっすぐに理研へ向かい、仁科研究室のサイクロトロンの破壊をやってのけたのである」との記述がある。これは戦時中、理研の仁科芳雄らが推進したとされる「日本原爆計画」を指している。

 

サイクロトロンとは、1930年に、アメリカの物理学者ロレンスが考案した原子核破壊装置の一種で、電子を高速でグルグル回す加速器のこと。現在、埼玉県和光市の理研・仁科加速器研究センターに、総重量8,300トン、史上最強のビーム強度を誇る世界最大級のサイクロトロンが設置してあり、重粒子線による癌治療などに使われている。

 

またサイクロトロンから発生する重イオンビームによる変異誘発技術を用いて、2つの桜の新品種の作出に成功している。これらの桜は「仁科桜」と命名され、同研究所内に植樹されている。…続きは本誌にて

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