第二の日本列島改造で日本は国家戦略を取り戻せるか
2026年09月25日
1945年の敗戦後、GHQは、戦前のような強力な中央集権国家の再現を防ぐため、国家を一体として動かす権限を分散させた。
この制度転換は、その後の国土政策のあり方にも長く影を落とした。戦後日本は経済成長を遂げる一方、国土を百年単位で構想する力を次第に弱め、政治も国家全体より地域の利益へ傾いていった。
では、日本は国家戦略をどう取り戻すのか。戦後の国土計画をたどりながら、その先にある新たな国土戦略を提案する。
占領政策が奪った「国家戦略」
帝国主義の時代、日本は国の総力を結集しなければ、独立そのものが危うかった。欧米列強がアジアを次々と植民地化する中、幕藩体制のままでは対抗できない。
明治政府は廃藩置県によって国を一つにまとめ、徴兵制、地租改正、殖産興業、鉄道、教育制度を次々と整えた。一見ばらばらに見えるこれらの政策は、すべて国力を高め、国家として生き残るという一つの目的につながっていた。ここに、近代日本の国家戦略の原点がある。
国家戦略の視野は、やがて国土そのものの設計へ広がっていく。1919年には都市計画法が制定され、1937年には内閣直属の企画院が設置された。
その到達点の一つが、1940年の「国土計画設定要綱」だった。目的には「国力ノ飛躍的増強」と明記され、人口、産業、交通、土地利用を日本列島全体の中で配置する発想が示された。
国家戦略は、国を一つにまとめる段階から、国土全体を設計する段階へ進んでいた。
この流れを大きく反転させたのが、1945年の敗戦と占領だった。
GHQは、戦前の日本で中央に集中していた権力を分散させていく。財閥解体、農地改革、地方自治制度の強化によって、経済力や土地所有は分散され、行政制度でも地方自治体が強化された。
明治以来、国の力を一つに束ねてきた流れは、占領によって逆方向へ動かされたのである。
この問題を象徴したのが、1950年制定の港湾法だった。
日本は海洋国家である。食料、エネルギー、原材料を海外から受け入れ、製品を世界へ送り出す日本にとって、港湾は国家の生命線である。どの港を育て、どこに産業を集め、太平洋側と日本海側をどう使い分けるか。本来は、日本列島全体を見て決めるのが国家戦略である。
占領政策の中でGHQは、港湾管理を地方へ分散させた。港湾管理の主体は地方公共団体へ移り、国の権限は大きく縮小された。全国の港湾を一つの国家戦略のもとで動かす力も弱まっていった。
興味深いのは、港湾法と同じ1950年に、国土総合開発法も制定されたことである。一方で分散を進めながら、もう一方では国土全体を総合的に開発しようとした。戦後日本の国土政策は、出発点から「分散」と「統合」という二つの思想を抱えていたのである。
その後も国土政策は揺れ続けた。1960年の所得倍増計画は太平洋ベルト地帯への集中による「効率」を重視し、1962年の一全総は「地域間の均衡ある発展」を掲げて「衡平」へ振れた。以後の全国総合開発計画も、時代に応じて「効率」と「衡平」の間を行き来する。
国土計画史を研究してきた川上征雄氏は、著書『国土計画の変遷――効率と衡平の計画思想』で、この変遷を「効率」と「衡平」のあいだを揺れ動く振り子として捉えている。
「効率か衡平か」「大都市か地方か」「集中か分散か」時代や政権が変わるたび、重点は一方から他方へ振れてきた。
国家戦略とは、これらを一つの国家目的のもとで最適に組み合わせることである。全国総合開発計画を真の国家戦略へ高めるには、百年先まで日本列島全体を一つの方向へ導く上位の視点が必要だった。
日本は、国家戦略を構想し、それを長期に貫く力を次第に弱めていた。
そんな時代、新潟の寒村に一人の天才が現れた。日本に国家戦略の思想を取り戻そうとした男、田中角栄である。…続きは本誌で













