• Clip to Evernote

2026年03月27日

日本の運命を決めた「最大の遅刻」関ケ原から大東亜戦争まで続く歴史の連鎖

2026年03月27日

1600年、徳川家康は一門の命運をかけて関ヶ原の戦いに臨んだ。勝てば天下人、負ければすべてを失う大勝負だ。その天下分け目の合戦に、徳川軍の主力3万8千を率いる秀忠は遅刻した。

勝敗はご存じの通り東軍の家康方が勝利したため、「遅刻」は歴史家の間でもあまり注目されていないようだ。

しかし、この遅刻こそが日本の歴史を変え、現代にも影響を与えている。そんな冗談にも聞こえる話だが、最後までお読み頂ければ、明治国家の成立過程と日本の敗戦(1945)にまで少なからず影響していたことに納得いただけるはずだ。

たかが遅刻、されど遅刻。秀忠、一生の不覚が日本を変えた。そんな歴史の珍味をご賞味あれ。

 

関ヶ原の遅刻

 

関ヶ原の合戦には徳川軍の主力約3万8千の兵は参戦できなかった。進軍の途中、真田昌幸が守る上田城を落とすつもりが、ゲリラ戦術や巧妙な防衛策に翻弄されて、わずか約2500人が守る城に手間取ったためだ。

 

家康も当初は落城を望んでいたが、戦況の変化で「上田攻略中止、急ぎ美濃へ向かえ」と督促した。ところが季節外れの大雨続きで川が増水し、使者の到着が数日遅れた。これが致命傷となった。

 

結果、秀忠は遅刻。家康は激怒。面会も謝絶した。

 

家康は関ヶ原で圧倒的勝利を想定していたはずだ。その後の所領分配のシミュレーションも計算済みのはず。

 

ところが、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継、島左近らの奮戦もあり、西軍が互角以上に戦っていたと評価する研究もある。少なくとも序盤は家康が圧倒的に優勢だったわけではない。

 

主力を欠く家康を支えたのが、福島正則、黒田長政、井伊直政らの猛将である。彼らの奮戦で流れが東軍に傾くと裏切りが続出し、研究によれば午前8時に始まった合戦は午後2時ころには勝敗が決していたよう
だ。

 

勝利に貢献した武将には手厚い恩賞を配分しなければならない。当然、鼻息も荒くなる。家康への進言、注文も増える。

 

これは敵側の処断にも影響した。東軍、西軍に分かれていたとはいえ、両者とも元は秀吉の家臣として同じ釜の飯を食った仲だ。東軍内からも西軍の武将に対する助命嘆願もあった。

 

勝利に貢献した武将の声を家康とて無視はできない。例えば西軍総大将の毛利家に対しても、取り潰しではなく約112万石から約30万石への削減で許している。

 

島津家も西軍として参戦しながら、約60万石の所領を安堵できた。

 

毛利家は長州藩(幕末期は100万石規模との見方もある)として再編され、島津家は薩摩(藩幕末期は90万石規模との見方もある)として存続した。そしてこの二藩こそが、幕末において倒幕運動の中心勢力になったのだ。

 

では、もしも秀忠軍約3万8千が遅刻せずに予定どおり戦場に到着していたならどうなっていたか。徳川軍は7万近い大軍勢だ。

 

秀忠軍は中山道から関ヶ原北側へ入る。東軍本隊と連携し、有利な位置から西軍を挟撃し、兵力差によって西軍に壊滅的打撃を与えていたはずだ。

 

すると、他の武将が活躍する余地はない。秀忠軍3万8千と比較すると、福島正則約6千、黒田長政約5千4百、細川忠興約5千、池田輝政約4千5百、井伊直政約3千6百、松平忠吉約3千であり、兵力が圧倒的に少ないことがわかる。

 

影響は敵への威圧だけではない。味方である東軍内部の雰囲気も一変する。7万の大軍勢を率いて徳川本体が関ヶ原を暴れまわれば、他の武将の発言力は確実に低下した。

 

すると恩賞の配分も変わった。家康は直参により多くの領地を与えることができたのだ。

 

家康の圧倒的勝利となれば独裁体制もさらに強固となった。すると、敵側にも厳しく対処できたはずだ。

 

毛利家の減封はさらに厳しくなり、取り潰し、あるいは小規模大名への再編という処分も考えられた。島津家も同様である。

 

仮に長州藩、薩摩藩が小藩になっていたら、幕末の歴史は大きく変わっていたはずだ。倒幕を主導する軍事力も財政力も維持できないからだ。…続きは本誌で

  • Clip to Evernote

関連記事