新潟市が参考にしたい富山市の公共交通、まちづくり
2025年11月27日
「車がないと暮らせないまち」から「人が歩いて楽しむまち」へ。人口減少と高齢化が進むなか、富山市は20年にわたり、公共交通を軸とした持続可能な都市経営に挑戦してきた。都市行政の現場に立ち続けてきた東福光晴氏が、その理念と実践、そしてこれからの「富山型コンパクトシティ」の行方を語った。その話には、新潟市が大いに参考にすべき内容が詰まっていた(本稿は、「新潟市の公共交通を考える会」の定例勉強会で、富山市企画管理部行政経営課の東福光晴課長が講演した内容をまとめたものです)。
富山という都市を見つめ直す
「公共交通を軸としたコンパクトなまちづくり」というテーマで、私どもが20年にわたって取り組んできた都市経営の話をさせていただきます。
富山市はご存じの通り、日本海に面し、一方で立山連峰を望む自然豊かなまちです。しかし、地勢的には非常に平らで広く、面積は1240平方㌔㍍と、県庁所在地としては全国2番目の広さを誇ります。この広大な面積に人口が薄く平べったく広がり、人口集中地区(DID)の密度も低く、さらにはかつてから自動車への依存度が極めて高い、いわゆる「車社会」の象徴のような「拡散した都市構造」を持っていました。
富山市民は持ち家率や世帯収入が高く、特に女性の就業率や共働き率が全国トップクラスです。それを支えてきたのが、高い自動車保有台数に象徴される「車社会」でした。市民アンケートを取ると、「車がないと不便」と答える人が7割を超えた一方で、「車を自由に使えない」と感じる人も3割いました。運転免許を持たない学生、運転が不安になった高齢者、あるいは日中家族に車を使われてしまう人。富山の暮らしは「車を持てる人のための都市」になってしまっていたのです。
地理的な分断も深刻でした。都市の中心を流れる神通川が市の東西を分断し、明治41年に設置された富山駅が南北を分断していました。この「分断の地」において、郊外に住む高齢者宅へ訪問するホームヘルパーの移動コストが、まちなかの1・5〜1・8倍に膨れ上がるというデータもありました。高齢化が進めば、この構造はやがて都市の持続性そのものを脅かすだろうと、私たちは強い危機感を持っていました。
転機となったのは2002年頃です。当時の森雅志市長が掲げたキーワードが「将来市民(Future Citizens)」という言葉でした。つまり、「いま暮らす市民の便利さ」ではなく、「これから生まれる世代にとって暮らしやすい都市とは何か」という発想です。この視点が、富山市の都市経営を根本から変えました。
市長の強いリーダーシップのもと、庁内に職員有志の研究会を立ち上げ、2年間にわたって議論を重ねました。そこから生まれたのが「都市交通体系マスタープラン」(2004年)です。この計画が、今日の富山市のまちづくりの〝背骨〟となりました。
市長がよく口にしていたのは、「説明責任ではなく、説得責任だ」という言葉です。「政策を打ち出すとき、説明だけで終わっては、人は動かない。納得してもらうまで何度でも話し、理解を深めてもらうことが大事だ」と。LRT(ライトレール)導入の際には、100回以上のタウンミーティングを開いたといいます。
しかし、これは単なるトップダウンではありませんでした。市長の強いリーダーシップのもと、まず庁内に30〜40代の中堅・若手職員による有志の研究会が立ち上がりました。このタスクフォースが2年間にわたり、これからの富山をどうすべきか徹底的に議論したのです。
国土交通省から来た当時の副市長の知見も借りつつ、職員たちが自ら研究し、データに基づき「人口減少下において、このコンパクトなまちづくりは有効だ」という結論に至りました。
この「腹落ち」するプロセスを行政職員がまず経験したこと。市長がその報告を待って「俺が言った通りだろう」と一気に議会に進めたこと。この「下からの熱意」と「上からの覚悟」の融合こそが、富山のまちづくりの基盤となったのです。…続きは本誌で













