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2020年12月4日

「コロナ禍解消には戦争しか…」 燕市教育長「辞任報道」の違和感

2020年09月26日

メディアが「問題文書」とした部分だけを見れば、遠藤浩・燕市教育長(当時、9月24日辞職)の文書はいろいろな意味で問題ありと言えよう。行政トップが不祥事を起こそうものなら、「辞任しろ」とばかりに責め立てるのがメディアの常套手段である。これにまんまと引っ掛かったのか、9月1日に地元紙が第一報を報じた翌日、遠藤氏は早々と辞任の意向を示した。だが今回の辞任劇には違和感が拭えない。

 

教育は生きる術を教えるべき

 

“事件”は8月21日に開かれた燕市教育委員会、8月定例会で起きた。自身が予め書き綴っておいた「教育長報告」と題する文書を、遠藤前教育長が読み上げた。長くなるが「教育長報告」の全文を紹介する(ゴシック字が問題とされた箇所)。

 

〈子供たちにとって本当に短い夏休みが終わった。子供にとって、遊びも学びの一つなのだろうから、今年の夏の子供たちの成長は小さいのだろうか。そうであっては困るのだが、きっと多くの子は「諦める」ということを学んだのであって、何かに夢中になることはできなかったのだろう。間違いなく「コロナ世代」の誕生である。

 

大きな災害があると、子供たちの心のケアにも注目が集まり、学校にカウンセラーが派遣されたりする。しかし、コロナ世代に対する心のケアはカウンセラーが得手とする守備範囲ではないと思う。災害で傷ついた心、その心の声を聴くことからカウンセラーは始めることになるだろう。コロナ禍による心の傷?ママは、恐怖などによる心的ストレスとは異なるのではないだろうか。コロナ禍が子供に与えたのは、命を守るためには仕方がないと「諦める」ことである。やる気みたいなものを削いだはずである。

 

そんな子供たちの顔をあげさせ、前を向かせるのは教員の仕事である。教材となるものを与え、考えさせ、まとめさせ、発表させたりする。その流れの中で、諦めたことをしっかり受け止めさせる。ごく当たり前の授業でいい、あまり特別なことはしなくてもいい。

 

繰り返すが、今学校に求められているのは、単純なカウンセリングマインドではない、教員の指導力なのである。ここで立て直しておかないときっと学年が進むにつれて不登校傾向を示す子が増えていくことぐらいは誰にだって予想できる。

 

8月は平和を強制的に考えさせられる。原爆の日があり、8月15日の終戦の日があるからだろう。現在の式典の映像と当時のモノクロ映像、砲弾とともに死体が映し出される。担任をしているときには、夏期講習の合間に「きけわだつみのこえ」から引用した資料で生徒に戦争とは何かを考えさせていた。

 

ところで、こうした死を前にした手記のようなものを読んでいると、どことなく死が美しいもののように感じそうになる。愛するものを守るために死ぬ。それは正しい愛の形なのかもしれない。しかし、それが教育によって作り出されたとするならば、その教育のあり方そのものが間違っていたはずである。教育は死に方を教えるのではなく、あくまでも生きる術を教えるべきなのである。

 

今のコロナ禍を短時間で解消する方法は、どこかで大きな戦争が発生することではないだろうか。中国とアメリカが自国以外の地域で戦争を始めれば、お金は動く。コロナ騒動などそっちのけで、ミサイルの発射の瞬間が繰り返し放送されるだろう。きっと経済が上向くきっかけになるのではないか。クリミアでもいい。

 

紛争とか戦争が始まれば武器という商品で経済は回復するだろう。罪のない人間の命との交換である。他に何かいい策があるのだろうか。愚かな人間であり続ける限り、注目の矛先を変えることでしか事態を乗り越えられないのかもしれない。〉…続きは本誌

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