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2019年05月25日

平成の新潟を彩った傑物の群像

2019年04月26日

まもなく平成の世から令和に替わる。平成の新潟を彩った経済界の傑物を挙げさせていただくと・・・。ヨネックスの米山稔、ダイニチ工業の佐々木文雄、日本精機の永井淳夫、角上魚類の栁下浩三、ブルボンの吉田高章、一正蒲鉾の野崎正平、コメリの捧賢一のお歴々が思い
浮かぶ。彼らに共通していたのは、研ぎ澄まされた感性、決断即実行の豪胆果敢、強運ではなかったか。(敬称略)

 

下請けから華麗なるメーカーへ転身したヨネックス

 

旧越路町の片田舎から世界のヨネックスを立ち上げた米山稔は動のひとだった。貧しい下駄屋の倅に生まれた米山は第二次世界大戦で沖縄戦に従軍している。戦後、捕虜収容所から帰還後は家業の下駄作りに従事するしか道はなかった。やがて鮭鱒漁業用の「木製浮き」製造に乗り出し、順調推移を辿ったものの突如として注文が途絶えた。漁業網は木綿製からナイロン製に取って代わり、浮きも木製からプラスチックに代わっていたのだ。情報力の重要性をこの時ほど痛感したことはない、と米山は当時を述懐している。

 

浮きに代わる商品探しが始まった。スボーツ用品は伸びるのではないか、漠然とした予想はあった。スキー、野球のバット、テニスラケット、バドミントンラケット。スキーは雪が降らない年は悲惨な目に遭う。バドミントンラケットは小さくて軽い。天候に関係なく室内で
楽しめるスポーツではないか。有望市場とみた。

 

紆余曲折の末、バドミントンラケット製造の下請けとなり、技術の習得に努めた。だが、親会社サンバタの倒産により、修羅場に舞い戻ることになる。サンバタ負債総額の3割を米山製作所(ヨネックスの前身)が占めていたのだから堪らない。

 

だが、敏捷な米山は「ピンチをチャンスに」変えてゆく。米山が好んだ言葉だが、下請けからメーカーへの転身だった。ヨネックスの自社ブランド確立の出発点は地獄の窯から生まれたようなものだったのだ。

 

今や、バドミントンラケットから始まった商品構成はテニスラケット、ゴルフ用品、スノーボードさらにはウオーキングシューズ、ランニングシューズ、ロードバイクと多岐にわたっている。

 

平成というより昭和を駆け抜けた米山だが、平成の世に大輪の華を咲かせた。

 

天下のナショナルと五分以上の勝負をしたダイニチ工業

 

日本を代表する企業に真っ向勝負を挑み一歩も引けを取らなかった会社がある。佐々木文雄(故人)率いる石油ファンヒーターのダイニチ工業だ。

 

煙突を付けない温風暖房機、いわゆる石油ファンヒーターが世に登場したのは、昭和53年のことだった。先陣を切ったのは三菱電機で、いきなり30万台を売った。衝撃が走った家電業界は翌54年、いきなり10社ほどが参入。ナショナル、東芝、日立、シャープ、サンヨー、本
県のコロナ等々。

 

新規参入を横目で見ていたダイニチ工業は、昭和55年最後の本格参入に踏み込んでいる。ダイニチは業務用ファンヒーターを昭和46年から製造販売しており、技術のノウハウを持ち合わせていた。ガスバーナーから始まった会社だけに、燃焼技術はお手のものだった。ブルーヒーターとして商品登録するセンスも光っていた。…続きは本誌に

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